朝倉氏はもと但馬国養父郡朝倉(現・兵庫県養父市)を本拠とした武士で、南北朝時代に越前守護・斯波氏に従って越前へ入った系統が越前朝倉氏の祖となった。当初は越前で守護代を務めたが、応仁の乱に際して朝倉孝景(英林孝景)が東軍に転じて越前守護職を得る御内書を獲得し、甲斐氏らを排して越前一国をほぼ平定した。孝景は「朝倉敏景十七箇条」と呼ばれる家訓を定め、家臣登用や質素倹約を説いて戦国大名としての統治の基礎を築いた。
朝倉氏は一乗谷(現・福井県福井市)を城下町として整備し、以後約100年にわたり越前を支配した。一乗谷は朝倉氏当主の居館を中心に武家屋敷や町家が立ち並ぶ城下町として発展し、他国からの侵攻をほとんど受けることなく全盛期を迎えた。現在、一乗谷朝倉氏遺跡としてその町並みの遺構が残されている。
戦国時代末期の当主・朝倉義景は将軍・足利義昭を一時庇護したが、上洛して信長に協力することはなく、同盟者の浅井長政とともに織田信長と対立を重ねた。天正元年(1573年)、信長との戦いに敗れた義景は自刃し、一乗谷の城下町も信長方によって焼き払われ、朝倉氏は滅亡した。