天文12年(1543年)、種子島に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人によって火縄銃が伝えられた。島主種子島時堯は高価を払って火縄銃2挺を購入し、鍛冶職人の八板金兵衛清定に製造を命じた。銃身のねじ切りなどの技術を翌年来島したポルトガル人から学び、伝来から8か月後に国産の火縄銃が完成したと伝えられる。

火縄銃はその後各地に広まり、近江国の国友・日野、紀伊国の根来、和泉国の堺などが主要な生産地として栄えた。これらの地域には鉄砲鍛冶が集住する「鉄砲町」が形成され、戦国大名は鉄砲の調達を競い、鉄砲を専門に扱う部隊である鉄砲隊を編成して合戦に投入するようになった。

鉄砲隊による集団運用は各地の合戦記録にみられ、長篠の戦いでは織田・徳川方が『信長公記』によれば5人の奉行のもとに鉄砲1000挺を配備したと記されている。なお、後世に広まった「三段撃ち」の逸話は同時代の史料には見えず、その実態は明らかでない。江戸時代以降も鉄砲の技術は各藩や保存会に受け継がれ、演武として今日に伝えられている。