太田道灌は永享4年(1432年)、扇谷上杉家の家宰であった太田資清の子として生まれた。諱は資長。父の跡を継いで扇谷上杉家に仕え、上杉政真・定正の二代にわたり家宰として補佐した。鎌倉五山や足利学校で学び、飛鳥井雅親・万里集九らと交流するなど和歌にも通じた人物であったとされる。
康正2年(1456年)から長禄元年(1457年)にかけて、父・道真とともに武蔵国に河越城および江戸城を築いた。古河公方との対立の中で防御拠点を整備する必要があったためとされ、道灌はその後も各地の築城に関わり、後世「築城の名手」として知られるようになった。
文明18年(1486年)、主君・上杉定正に招かれた糟屋館(現・神奈川県伊勢原市)で入浴後に曽我兵庫に襲われて暗殺された。享年55。死に際に「当方滅亡」と言い残したと伝えられる。鷹狩の途中で農家の娘から山吹の花を差し出された「山吹の里伝説」でも知られるが、この逸話は江戸時代中期の『常山紀談』が初出であり、史実としての確証はない。